佐々木承周老師

海外布教50年の歩み

妙感寺住職金井愚道の実父佐々木承周老師は、50年にわたり、米国をはじめとした海外布教を行った。その足跡をたどり、禅の海外への展開をご紹介します。

また、佐々木承周老師にいたる祖師方についても、概略をご紹介します。

右は、妙感寺にある佐々木承周老師の墓所です。「杏山」は、老師の道号。

滋賀県湖南市 妙感寺の佐々木承周老師の墓所

佐々木承周老師の歩みと正受庵

佐々木承周老師は1907年に生まれ、1921年に北海道の瑞龍寺で三浦承天老師の見習い僧となった。

三浦承天老師は、松島瑞巌寺の住職から京都大本山妙心寺の管長となった人である。佐々木承周老師は京都妙心寺と松島瑞巌寺で修行し、1947年に、三浦承天老師の法を嗣いで老師となった。

1955年より、長野県飯山市の正受庵の住職をつとめた。

正受庵は、正受老人(道鏡慧端)が結んだ庵である。

正受老人は、無相大師(妙心寺開山)、微妙大師(妙心寺二世、妙感寺開山)、愚堂東寔(妙感寺中興)の正統の法系に連なり、白隠禅師を打出した禅の高僧である。

更に、正受庵は、妙感寺現住職が出家得度し修行したご縁のある寺である。

長野県飯山市 正受庵本堂

正受庵本堂(長野県指定史跡)

アメリカへ

1963年6月、佐々木承周老師は京都大本山妙心寺の命により、単身、アメリカへ渡った。妙心寺が米国布教を計画し、老師が布教師となったのである。

老師は英語が話せなかったので、出発にあたり英語の辞書を持っていったという。老師は、「アメリカに禅が根付くまでは死なない」と誓いをたてていた。

老師の海外布教は、この後、ロサンゼルスを拠点として進められた。


布教の展開

1960年代のアメリカは、ベトナム戦争が社会に影を落とし、既存の伝統的価値観が揺らぎ、「ヒッピー」と呼ばれる病的な若者たちがあらわれた時代だった。

老師は積極的に禅を積極的に喧伝したわけではなく、ロサンゼルスでただ坐禅をしていた。

すると、既存の価値観にあきたらず、禅に興味をもつ人々が老師のもとに一人、また一人とやってきて、信者が増えていった。

佐々木承周老師のアメリカでの布教25周年記念アルバム

ロサンゼルスに「臨済寺」を設立

信者が増加するにつれて、より組織的な運営が必要となり、1968年に臨済寺が設立された。ロサンゼルスのシマロン禅センターが臨済寺の中核となった。

その他に、ロサンゼルスの東にあるガブリエル山脈の人里はなれたマウント・ボールディ禅センターも臨済寺の主要施設として設立された。その後、1980年に、米国臨済寺は、京都大本山妙心寺の別院となった。

ロサンゼルスを足掛かりとして、米国の多数の信者のグループが禅センターを立ち上げていった。アメリカだけでなく、カナダ、プエルトリコ、更には大西洋を越えてドイツやオーストリアにも禅センターが設立されていった。

マウントボールディー禅センターで坐禅する修行者たち

マウント・ボールディー禅センター

佐々木承周老師とレナード・コーエン

Leonard Cohen "Book of Longing" レナード・コーエン著 詩集 ブック・オブ・ロンギング

世界的に有名な歌手のレナード・コーエンは、佐々木承周老師の熱心な信者だった。

コーエンは、「堕落者」というキャラクターを演じながらも、心の中では「真の教え」を求めて彷徨っていた。

そして最後に佐々木承周老師と出会って、人生の師を見つけたのである。
コーエンは、マウント・ボールディー禅センターで禅修行に励んだ。

コーエンの詩集の「ブック・オブ・ロンギング」に掲載されている詩の中には、
このマウント・ボールディー禅センターで書かれたものもある。


"Book of Longing" Leonard Cohen


レナード・コーエンは、佐々木承周老師から、「自閑」という僧名を頂いていた。

カリフォルニア州ロサンゼルス臨済寺 禅堂

広がる海外布教の拠点

米国

臨済寺(ロサンゼルス)
マウント・ボールディ禅センター(カリフォルニア州)
ジェメズ・ボーディー・マンダラ禅センター(ニューメキシコ州)
アルブケルケ禅センター(ニューメキシコ州)
ブルーリッジ禅グループ(ヴァージニア州)
デンキョウ庵(カリフォルニア州)
デザット・ホット・スプリング(カリフォルニア州)
ハクウン寺(アリゾナ州)
ヘキウン山ホウガク寺(コロラド州)
ホウコク庵 禅センター(ミズーリ州)
ハリウッド禅センター(カリフォルニア州)
ホウン庵(マサチューセッツ州)
イサカ禅センター(ニューヨーク州)
ジョウシュウ禅寺(カリフォルニア州)
カクショウ寺(ニューメキシコ州)
エンツウ寺 小禅堂(ワシントン州)
ロングアイランド禅センター(ニューヨーク州)
マイアミ禅センター(フロリダ州)
ミョウコウ尼叢林(カリフォルニア州)
マウント・コブ サイショウ禅寺(カリフォルニア州)
マウント・ゲイジン禅センター(コロラド州)
プリンストン禅の会(ニュージャージー州)
プージェット・サウンド禅センター(ワシントン州)
ロクオン寺(カリフォルニア州)
トウコウ寺(ニューヨーク州)
ユニヴァーシティ禅センター(コロラド州)
アッパーヴァレイ禅センター(ヴァーモント州)
ウィリアムスヴァーグ禅センター(ニューヨーク州)
ノースカロライナ禅センター(ノースカロライナ州)
ドーアン和尚,ショーレン和尚(アリゾナ州)



カナダ

デ・ラ・メイン エンプク寺(モントリオール)
ヴィクトリア禅センター(ブリティッシュ コロンビア州)
ヴァンクーヴァー禅センター(ブリティッシュ コロンビア州)

ニュージーランド

テキオ和尚(クライストチャーチ)




プエルトリコ

プエルトリコ禅センター チョウオン寺


オーストリア

ボーディダルマ禅堂(ウィーン)


ドイツ

アウグスブルク禅堂
ボーディ・ダルマ禅堂(デュッセルドルフ)

100歳記念

佐々木承周老師の布教がアメリカのみならず、カナダやヨーロッパに及ぶにつれて、その名が広く知られるようになっていった。

2013年には、イギリスのワトキンスブックスという出版社が発行している「世界で精神的に影響力のある100人」のリストの19番目に紹介されている。他にはダライ・ラマ、ネルソン・マンデラ、ローマ法王ベネディクト16世、池田大作といった顔ぶれであった。

2007年に老師は百歳の誕生日を迎えた。信徒・弟子たちが感謝の心をもって誕生日を祝した。

佐々木承周老師は、平成26年(2014年)7月27日、遷化された。世寿107歳。

佐々木承周老師の墓所は、「杏山塔」として妙感寺にある。

交流

老師の遷化後も、老師を慕う信徒は後を絶たない。

平成28年、老師の3回忌にあわせて、カリフォルニアの信徒が妙感寺の杏山塔を拝塔した。

今後も、海外の信徒と日本の信徒とのつながりは続いていくことでしょう。


佐々木承周老師へつながる禅の教え

大應国師から大燈国師へ

 南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大應国師)は、鎌倉時代に中国にわたり、虚堂智愚(きどうちぐ)禅師のもとで修業をして仏の教えを体現すると、帰国して禅の教えを広く日本に伝えるようにとの許しをえた。

日本の現在の臨済宗は、京都大本山妙心寺を含め、この南浦紹明から連なっている。

 南浦紹明の弟子に、京都大本山大徳寺を開いた宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師)がでた。

北朝の花園法皇は、慢性的に病を得ていたことから、心の安らぎを求めて宗峰妙超を師と仰いだのだった。



佐々木承周老師へつながる禅の教え

関山慧玄禅師 大本山妙心寺を創建

  大燈国師の死期が迫ると、国師はこれ以降、自分の弟子である関山慧玄(かんざんえげん)(無相大師)を探し出して師とするように花園法皇に申し上げた。

関山慧玄は美濃の伊深の山奥で隠遁していたが、花園法皇は院宣により京都に呼び寄せ、自身の別荘を寄進して京都大本山妙心寺を開いたのである。

伊深の寒村の村人は、野良仕事の手伝いをさせていた関山慧玄が法皇から呼び出される高徳の僧と知って大いに驚いたという。

大應国師 ⇒ 大燈国師⇒ 関山慧玄の法系を、「應燈関(おうとうかん)一流の禅」と呼ぶ。

以上が京都大本山妙心寺の開創の概略である。


佐々木承周老師へつながる禅の教え

「應燈関」から微妙大師へ

  

 京都大本山妙心寺の開祖 関山慧玄(かんざんえげん)(無相大師)の法を嗣いだ唯一の弟子が、妙感寺を開いた授翁宗弼(じゅおうそうひつ)(微妙大師)である。

 授翁宗弼は、後醍醐天皇の近臣で南朝の忠臣の万里小路藤房(までのこうじふじふさ)である。

 建武中興の復古主義を嫌気して出家し、京都大本山妙心寺の二世住職をつとめ、滋賀県三雲の妙感寺で遷化(逝去)した。妙感寺には、授翁宗弼の墓所がある。下の写真は、妙感寺境内の塔所(たっしょ)である。

先述のとおり、大應国師 ⇒ 大燈国師⇒ 関山慧玄の法系を、「應燈関(おうとうかん)の一流の禅」とよび、更に授翁宗弼(じゅおうそうひつ)(微妙大師)から、現在の臨済宗妙心寺派はこの法系に連なっている。

まさに京都大本山妙心寺の大動脈であり、妙感寺はその重要な結節点に位置している。

 その後、妙心寺は開山没後、わずか三十九年後に足利将軍家によって取り潰される憂き目にあうが、三十四年間の空白の時期を経て、日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師の尽力により復興した。


 なお、授翁宗弼(じゅおうそうひつ)(微妙大師)と南朝の忠臣 万里小路藤房は同一人物ではないとの異説がある。

この点につき、 江戸時代の京都大本山妙心寺の学僧 無著道忠(むじゃくどうちゅう)は、「授翁藤房に非ざる時、授翁の一徳を減ぜず、又た法山の法道を損せず、又た授翁是れ藤房の時、授翁の一徳を増さず、又た妙心の法道を益せず、此の義確定、然る後、授翁藤房に非ず、授翁是れ藤房を論ずべし」とする。

 その上で、「妙心寺二世 圓鑑國師傳攷 全」は、

・授翁宗弼に対し神光寂照禅師号を賜った際、「況や又王佐の才は世間に鳴る」とあること

・明治天皇より明治元年に妙感寺に賜った勅書に「汝中納言藤原藤房よ、汝は元弘の年、力を皇室に盡くせり」とあること

・明治十二年に明治天皇から「圓鑑國師」の勅号を賜っていること


 以上から、古来、京都大本山妙心寺は同一人物とするを正当としている。

 加えて、無著道忠は、授翁宗弼 三百五十年遠忌に際して万里小路家から授翁宗弼が藤房卿と同一人物であるかとの問い合わせがあったとき、藤房卿の家来筋の家が存続しており、妙感寺の口伝を真正とすべきであることとする。(正法山誌)


 更に、妙感寺に後醍醐天皇念持仏などの南朝ゆかりの宝物がつたわっていることを考え合わせると、授翁宗弼は万里小路藤房であって、以上を疑うならば「夫れ以上は各々の主観に待つより外に道がない」(妙心寺二世 圓鑑國師傳攷全)。


愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師の妙感寺再興


 万治年間(一六六〇頃)、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)が妙感寺を中興した。

 愚堂東寔は、大圓寶鑑国師の号を朝廷より賜った、禅の高僧であり、京都大本山妙心寺の一三七世である。

 当時、妙感寺は荒廃していた。愚堂東寔は、妙心寺二祖 授翁宗弼(じゅおうそうひつ)(微妙大師(みみょうだいし))の開創寺であり、またその墓所がある妙感寺を復興させるべく尽力した。


 

愚堂東寔は後水尾天皇や徳川家光、その他多数の大名が篤く帰依しており、その縁により、後水尾天皇の中宮 東福門院(徳川秀忠息女)の水口御殿を下賜され、これを妙感寺に移設して、現在の方丈となっている。上の写真が、妙感寺の方丈である。

愚堂東寔禅師は、妙感寺をはじめ、多数の寺院の復興に奔走した。

 愚堂東寔には、剣豪宮本武蔵とのエピソードが、吉川英治著「宮本武蔵」で紹介されている。巌流島の決闘前に心の迷いを払拭したい武蔵は、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)禅師に教えを請うた。すると、愚堂東寔は、武蔵のまわりを棒で地面に円を描いて去った。これで心の迷いが解消した武蔵は、巌流島の決闘にむかい、勝利をおさめたという。


愚堂東寔から至道無難、正受老人、白隠禅師へ

  妙感寺を中興した愚堂東寔(ぐどうとうしょく)から、至道無難(しどうむなん)がでる。

 至道無難は関ヶ原駅の本陣問屋相川家の当主で、愚堂東寔は江戸との往復の際に至道無難の家を定宿としていた。

至道無難は愚堂東寔について修行したいと思い、公案も頂いていた。

しかし一方で、酒豪で家業を怠ったことから、愚堂東寔の諭によって酒をたち、出家して修行し、愚堂東寔の法を嗣ぐと、江戸の麻布に東北庵という庵をかまえた。

右は、妙感寺が蔵する愚堂東寔禅師像。

 至道無難(しどうむなん)禅師から、正受老人(しょうじゅろうじん)(道鏡慧端(どうきょうえたん))に至る。

正受老人が長野県飯山市に開いた正受庵は、佐々木承周老師が住職をつとめた寺であり、また、老師の子息である妙感寺住職 金井愚道和尚が修行した寺で、妙感寺とかかわりが深い。

 冬の飯山は雪が大変に深く、一日に何度も雪下ろしが必要で、正受庵での修行の厳しさがうかがえる。

 右の写真は雪におおわれた冬の正受庵の本堂。

正受老人の生い立ちと出家

 正受老人(しょうじゅろうじん)は真田家の血筋をひき、大坂の陣で活躍した武将 真田幸村の兄、信州松代の大名 真田信之の子である。正受老人の母が正受老人の出生前に信州飯山の松平家に預けられたため、正受老人は飯山で生まれた。


 

 左の写真は、正受老人の自画像。

(熊本細川家永青文庫蔵)

正受老人 出家

正受老人(しょうじゅろうじん)は幼いころから聡明で、やがて禅に導かれ、良き師のもとで修行をしたいと思うようになった。

松平家が参勤交代で江戸に移るときにお供をして、江戸で 至道無難(しどうむなん)にめぐりあった。

正受老人は、夜間に江戸屋敷を抜け出して至道無難のもとへ行って出家した。松平家は、真田家から預かっている正受老人の姿が見えぬと大騒ぎとなり、行方を探し当てたときには、既に出家していたのであった。

正受老人 飯山に帰る 

正受老人(しょうじゅろうじん)は至道無難(しどうむなん)のもとで厳しい修行をし、至道無難の法を嗣いだ。

そのころ、江戸では至道無難の高名が知れ渡り、諸大名が至道無難の教えを乞うていた。

 そこで、諸大名が東北寺という大きな寺を建立し、その住職に至道無難をお願いしたが、至道無難はこれを断って正受老人を住職に指名した。ところが正受老人もこれを断り、しつこい誘いを嫌って、生まれ故郷の飯山に帰ってしまった。

名利を求めない正受老人

 飯山の松平侯は正受老人(しょうじゅろうじん)に帰依し、一寺を建立し寺領二百石を与えようとしたが、正受老人は、至って無欲であり、「何ぞ民の利を奪はんや」と、これを断ったのである。

 正受老人の名利を求めぬ禅風を理解した松平侯は、かわりに飯山城中にあった手洗石を贈った。左の写真がその手洗石で、今も正受庵第一の寺宝として伝わっている。

 また、松平侯が遠州掛川に転封になったとき、一緒にうつるように勧められたが、正受老人はこれも断った。

 正受老人の生きた時代、「禅宗の教団が時流や幕府に阿附随従の態度を取るようになったことは、(中略)禅宗の為めには残念な出来事であった。禅の宗旨に適うように自分の生死の在り方を堅く決心していた慧端禅師にとっては、此のような宗派禅宗教団や其の教団人と妥協して、僧侶として在ることは、とても出来なかったのであろうと考えられる。」(正受老人二百五十年忌 記念号 正受庵 酒井昭道師 寄稿より)


正受老人 遷化


 正受老人(しょうじゅろうじん)は八十歳で遷化されるまで、飯山の正受庵にとどまった。正受老人は生涯、名利・位階を求めず、一庵主としてのありようを貫いた人であった。正受老人は、享保六年(一七二一)十月六日に遷化された。

正受老人は、以下の遺偈を残している。

坐死 末後の一句

死 急にして道(い)い難し

無言の言を言として

道わじ道わじ

正受庵の復興

正受老人(しょうじゅろうじん)の遷化の後、正受庵は次第に荒廃し、正受老人の事績も人々の記憶から薄れていった。

更に、明治の廃仏毀釈によって、正受庵は廃寺となってしまった。

しかし、「明治の三舟」と呼ばれた山岡鉄舟らの尽力により、正受庵の復興が始まった。

その後、佐々木承周老師の代に、正受庵は長野県の史跡に指定された。このように多数の人々の尽力によって正受庵が復興され、今にいたっている。

正受庵の境内にある正受老人の墓碑


佐々木承周老師へ至る法系 

松原盤龍老師・三浦承天老師

 さらに時代が下り、松島瑞巌寺の僧堂師家 松原盤龍(まつばらばんりょう)老師がでた。

 松原盤龍老師は、明治の「廃仏毀釈」の法難に立ち向かった 荻野独園(おぎのどくおん)老師のもと、相国僧堂で修行した人である。

 松原盤龍老師には興味深いエピソードがある。

 松原盤龍老師は、若い修行僧が廃棄した手ぬぐいや褌を集めて洗い、衣に仕立てて身にまとった。いわゆる「糞掃衣」である。

 また、松原盤龍老師が瑞巌寺に住職としてやってきたとき、あまりのみすぼらしい有様に乞食坊主と思われ、よもや新しい住職がやってきたとは思われなかったそうである。

 松原盤龍老師の口癖は「もったいない」であったという。老師の、いかなるものも無駄にせずに大切に生かしきっていく禅風に、人々は当初は当惑したものの、やがて尊崇していったという。

左は、松原盤龍老師の肖像である。

北海道 瑞龍寺の創建

 松原盤龍(まつばらばんりょう)老師は、北海道の人々の禅布教の志にこたえて、札幌の瑞龍寺の創建に尽力した。
 瑞龍寺は、佐々木承周老師が最初に弟子として入った寺である。

  松原盤龍老師は、松島の瑞厳僧堂の師家をつとめるかたわら、瑞龍寺の前身である北海道禅道会の開創へと奔走した。 

 松原盤龍老師は十三年にわたり瑞龍寺の開創に尽力したのち、北海道瑞龍寺の住職として、自らの法嗣である三浦承天(みうらじょうてん)老師を指名した。

 大正七(一九一八)年に、三浦承天老師は瑞龍寺に着任し、松原盤龍老師の北海道布教の志を引き継いだ。三浦承天老師の瑞龍寺着任後の大正九年、瑞龍寺の寺号公称が許され、瑞龍寺が正式に開創された。

 寺号公称許可後、瑞龍寺にはまだ本堂がなかったので、三浦承天老師は寄付を募ったが、これは難航したと伝えられている。寄付額が意のままにならず、本堂の建設は遅延した。

 師である松原盤龍老師や、その他瑞龍寺の役員からの巨額の寄付をもって、漸く建設費の目途がついて着工し、大正十二年(一九二三)に落慶法要が営まれた。

 昭和十年(一九三五)、松島瑞巌寺僧堂師家 松原盤龍老師が遷化した。

 そのため、三浦承天老師が北海道の瑞龍寺から松島の瑞巌寺へと異動した。北海道の瑞龍寺は兼務となり、無住となった。更には、三浦承天老師が遷化された後は、兼務住職もいなくなった。

 以上が北海道瑞龍寺の草創期の概略である。

三浦承天老師と佐々木承周老師

 三浦承天(みうらじょうてん)老師は仙台市の西光寺の生まれで、妙心僧堂で修行後、いったん生家である西光寺に戻った。

 その後、松原盤龍(まつばらばんりょう)老師が松島の瑞厳寺に入ると、三浦承天老師を副司(ふうす)として起用した。

 三浦承天老師は瑞厳寺で修行をし、松原盤龍老師の法を嗣いだ。

 そして、瑞龍寺開山住職、松島瑞厳寺住職を経て、京都大本山妙心寺の管長となった。

 三浦承天老師は法に厳しい反面、きさくな一面もあり、初対面の人でも信頼関係を築くことのできるひとであった。

 三浦承天老師は、昭和三十三年(一九五八)二月二十二日に世寿 八十五歳で遷化された。

右の写真:三浦承天老師

佐々木承周老師

 佐々木承周老師は、三浦承天(みうらじょうてん)老師が北海道瑞龍寺に住職していた大正十年に弟子となった。

 佐々木承周老師は、明治四十年(一九〇七)に宮城県の農家に生まれた。

 十四歳のときに北海道の瑞龍寺へ入って、三浦承天老師のもとで修業し、駒澤大学などで学び、後に妙心僧堂に入った。

 その後、前述の通り、松島瑞巌寺僧堂師家 松原盤龍(まつばらばんりょう)老師の遷化にともなって、昭和十二年(一九三七)に三浦承天老師が松島の瑞巌寺に晋山して瑞厳僧堂師家に就任すると、佐々木承周老師は妙心僧堂から瑞厳僧堂へ移った。

 昭和十九年(一九四四)に佐々木承周老師は三浦承天老師の命により松島瑞巌寺の副司(ふうす)に就任し、更に昭和二十二年(一九四七)に印可され、三浦承天老師の法嗣(はっす)となった。

 昭和二十四年(一九四九)に三浦承天老師が京都大本山妙心寺管長に就任すると、佐々木承周老師は瑞厳僧堂の師家代行となった。

その後、佐々木承周老師は長野県飯山市の正受庵へ移った。正受庵は、正受老人が開創した寺で、臨済宗中興の祖 白隠禅師が悟りを開いた名刹である。

佐々木承周老師 米国へ

 三浦承天(みうらじょうてん)老師のあと、京都大本山妙心寺の管長となった古川大航(ふるかわたいこう)老師は、自ら数か月アメリカに滞在して伝道を行い、禅の海外普及に注力する方針をたてた。

 そして、佐々木承周老師に海外布教師となることを命じたのである。

 古川大航老師は、佐々木承周老師の実行力と海外布教に対する覚悟のほどを高くかっていたので、佐々木承周老師を指名したのだった。

  こうして、佐々木承周老師は、昭和三十七年(一九六二)に、羽田空港から、アメリカ ロサンゼルスへと旅立ったのである。

 旅立ちにあたって、北海道瑞龍寺の総代 松本菊次郎氏が見送りに来た。

 佐々木承周老師と松本氏との親交は、松本氏が亡くなるまで手紙のやりとりが続いたという。その手紙には、佐々木承周老師の北海道瑞龍寺への思いが綴られていたという。


右の写真;
 京都大本山妙心寺 梶浦逸外管長から佐々木承周老師に贈られた白檀の観音菩薩像

佐々木承周老師 海外布教とその教え

佐々木承周老師は、その進取の気性と精神力、そして海外布教に対する深い情熱によって、北米をはじめ、世界各地に禅の教えを伝道しました。

佐々木承周老師の海外布教の様子と老師の教えの詳細について、妙感寺は海外の資料を日本語に翻訳しました。

日本の檀信徒をはじめ、禅に興味をもたれる方に頒布しております。

詳細は、以下まで。