妙感寺開山 微妙大師尊像
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は、後醍醐天皇の建武中興に尽力し、新田義貞、楠木正成と並ぶ「建武三忠臣」の一人である。
建武元年(一三三四)に出家し、「授翁宗弼(じゅおうそうひつ)」と号した。延文元年(一三五六)に関山慧玄(かんざんえげん)(妙心寺開山、無相大師(むそうだいし))より印可をうけ、妙心寺二世をつとめる。
授翁宗弼は、諸国放浪ののち、湖南市三雲に庵を結び隠棲する。これが妙感寺の始まりである。
「正法山六祖伝」にみる授翁宗弼の記事
京都大本山妙心寺は、足利将軍家により一時中絶したが、妙心寺四世 日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)禅師により再建された。その後、混乱により失われたと思われる資料を補うために、妙心寺六世 雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が妙心寺開創期の情報を記録し、後に補筆されたものが「正法山六祖伝」である。その中の、雪江宗深禅師による授翁宗弼の記事は以下の通りである。
「師 諱ハ宗弼 字ハ授翁 関山ニ嗣グ 城州ノ人 俗姓ハ藤氏(吉田ノ中納言藤房ト号ス) 小一条内大臣高藤公(又歓修寺一十六葉ノ孫ト号スルナリ) 大臣家ノ華族ナリ (中略) 開山入滅ス 師踵ヲ継イデ住持シテ第二世ト為ル 師ノ法ヲ嗣グモノハ 無因因和尚、雲山ノ峨和尚、拙堂ノ朴和尚ナリ (中略) 師 康暦二年康申三月二十八日ヲ以テ遷化ス 世寿八十五 法臘四十三闍維シテ設利ヲ収ム 搭ヲ正法山ノ西頭ニ建テ名ヅケテ天授院ト曰ウ」
後西院天皇より禅師号を賜る
萬治二年(一六五九)七月十二日、妙感寺開山 授翁宗弼(万里小路藤房)は、後西院天皇より、「神光寂照禅師」の号を賜った。
勅書の内容の概略は以下のとおり。
「天皇陛下の勅である。中国の虚堂禅師から数えて五世の法孫であり、関山慧玄禅師の第一の弟子である授翁宗弼和尚は、その名はこれまで皇室に知れわたり、徳は後世の人々に及ぶ。仏法の源となり真理の月をうつし、天から授かった才は確固として、松の木のように仏法を千年にわたり伝える。修行僧を鍛えあげ、深く仏の教えを説き、その威風は万里に及んで臨済宗の門徒の範となり、気は諸方の非を覆って迷い苦しむ人々を救う。祖師の禅を教外別伝するだけでなく、皇室を補佐した才知は世に広く知られている。授翁宗弼和尚の名声は天皇陛下のお耳に達し、陛下より格別のお褒めがあった。よってここに神光寂照禅師の号を諡する。 萬治二年七月十二日」
(勅 虚堂老師五世ノ的孫ニシテ本有圓成佛心覺照國師第一ノ神足タル授翁和尚 名ハ前朝ニ徹シ徳ハ後裔ニ垂ル 甘露ニ源アツテ勤水一輪ノ月ヲ湛ヘ 天授ハ無変ニシテ 天法ヲ千年ノ松ニ攀ス 衲子ヲ鉗鎚シ 深ク来風ヲ辨ジ威ハ萬里ニ振ヒテ宗門ニ標的ス 気ハ諸方ノ匪ヲ蓋ヒテ普ク迷倒ヲ救フ 啻ニ祖師ノ禅教外ニ傳フルノミナラス 況ヤ又タ王佐ノ才世間ニ鳴ル 師ノ聲價遙ニ天聴ニ達シ叡感ニ勝タサセラレス 神光寂照禅師ト諡セラル 萬治二年七月十二日)
明治天皇の勅使 妙感寺へ
明治元年、明治天皇が江戸に東巡され、その行幸の様子を、滋賀県が「明治天皇聖蹟誌」として冊子にまとめた。
その中に、明治元年九月二十二日に妙感寺へ勅使が差し遣わされて、勅書を賜った様子が記事となっている。
万里小路藤房が大燈国師(だいとうこくし)(京都大本山大徳寺開山)に参禅して授翁宗弼(じゅおうそうひつ)と号し、後に諸国をめぐったあと、三雲に至って妙感寺を開いたとの事績が紹介されている。
「明治天皇紀」第一に掲載された、勅使派遣の記事である。
明治天皇 勅書
明治天皇聖蹟誌の記事のうち、勅書を拡大したもの。万里小路藤房に下賜された明治天皇の勅書である。
勅書の内容は、概略、以下のとおりである。
「万里小路藤房は、元弘年間に後醍醐天皇が鎌倉幕府軍に追われたときに天皇をよくお護りした功績があった。藤房卿の皇室に対する忠義には目を見張るものがある。何百年たっても、人々が藤房卿を思い慕っている。近江の国の妙感寺は、藤房卿の古跡である。今回、東国へ向かうにあたり、藤房卿への思いが殊更に深く、藤房卿の霊魂を慰労したいと思い、石山基正を遣わして金幣(金貨)を下賜する。」
権中納言藤原藤房 汝元弘ノ年ニ當リ 力ヲ皇室ニ効シ 至忠惻怛 千秋ノ下 景慕止マス使人ス
近江國妙感寺ハ汝ノ古跡ナリ 東巡ノ道ニ近接シ 追感殊ニ深シ 因テ汝ノ霊魂ヲ慰メンカ為ニ石山右兵衛権佐 藤原基正ヲ遣使シ金幣ヲ賜フ 宣 明治元年戊辰九月廿二日
「明治天皇紀」に掲載された勅使派遣の記事
「明治天皇紀」に掲載された国師号下賜の記事
「昭和天皇実録」に掲載された大師号下賜の記事
殿中対面図
万里小路藤房卿(右奥)と楠木正成公(左)の殿中対面図。公卿の藤房が楠木正成の上座に着座している。妙感寺蔵。
後醍醐天皇念持佛
左は、後醍醐天皇の念持佛の秘仏千手観音像。(妙感寺蔵) 上の殿中対面図とともに、万里小路藤房卿と南朝との関係をうかがわせる。
三所倭歌(微妙大師真筆)
妙感寺に伝わる、微妙大師(みみょうだいし)真筆の和歌三首。
丹波、吉野を経て、三雲にたどりつき隠棲した微妙大師の足跡を今に伝える。
右より
丹波の国をさりし時に
住あらす 宿をいつくと 人とわば
あらしや庭の 松にこたへん
よし野の住家を出るとて
爰も又 浮世の人の とひくれは
なを山ふかく 宿もとめてん
三雲の郷の山ふかく住なれて
世のうさを よそに三雲の くもふかく
てる月かけや 山居の友
明治天皇より国師号を賜る
明治十二年、授翁宗弼(じゅおうそうひつ)万里小路藤房卿)は明治天皇より「円鑑国師」の号を賜る。
妙感寺殿堂修理に大正天皇より金三百円を賜る
大正二年(一九一三)、妙感寺は殿堂修理のために、大正天皇より金三百円を下賜された。
加えて、京都大本山妙心寺及び妙感寺は、諸方に寄付を募った。妙感寺は、大正年間に殿堂の補修のため、広く寄付を募った。上の写真は、その際の化縁簿(寄付に応じた人の名簿)である。多くの宮家、華族、寺院、信者よりの寄付が集まった。女性信者よりの寄付も多かったという。(「妙感寺史」p.122)
万里小路中納言藤房卿古跡
江州三雲妙感寺化縁簿
近江国甲賀郡三雲村妙感寺ハ 勅諡神光寂照禅師 圓鑑国師 授翁宗弼上人即チ建武中興ノ元勲万里小路中納言藤原藤房卿隠棲ノ古跡ニシテ且其ノ塔所タリ 現今ノ方丈ハ寛文元年 後水尾院天皇中宮 東福門院卿ノ霊殿トシテ御下賜シ給ヒシ所ナリ 曩ニ明治元年九月 先帝御東幸ノ際 特ニ勅使ヲ賜リ 以テ卿ノ霊ヲ弔慰シ給フ 然ルニ寺門多年荒廃ニ陷リ 殿堂ノ頽敗殆ント名状スヘカラス 至忠ナル卿ノ遺跡ヲシテ今ヤ空シク湮滅シ去ラントス 衲等感慨ノ念已ム能ハス 茲ニ殿堂修築霊跡復舊永遠保存ノ策ヲ講シ 以テ卿ノ誠忠懿徳ヲ不朽ニ傳ヘント欲ス事 畏クモ天聴ニ達シ辱クモ御補助金参百圓御下賜ノ恩命ヲ蒙ルニ至ル 冀クハ大方ノ志士 卿カ忠愛ノ心ヲ心トセラルルアラハ幸ニ衲等ノ微哀ヲ納レ此ノ挙ヲ賛助セラレン事ヲ卿定中ノ點頭敢テ疑団ヲ容ルヘカラサルナリ
大正二年六月
主唱者 妙心寺主 豊田毒湛 (朱印)
化主 妙感寺現住 平井弘道(朱印)
賛助 伯爵 万里小路通房